転車台の現れた日
昭和初期から戦後の一時期、鍋屋横丁を始発とする大宮八幡宮行きの東横乗り合いバスの発着所(現本町4-30)がありました。道幅が狭くバスを方向転換するために転車台が設置されました。手動式で、上に乗ったバスを運転手と車掌が手で押して回転させていたそうです。横には地下への点検口があり中はすり鉢状に造られていました。
昭和6年に転車台を囲むように建てられた2階建ての建物は、幸いにも戦火を免れ無事でしたが、戦後バス路線の変更により発着所は廃止されました。
昭和21年に転車台の上に床を張り、内部を改装し東横バスの名前をとって東横喫茶店として50数年間街の人々の憩いの場となりました。
その後平成14年にビル建設に伴い喫茶店も取り壊されることになり、現存する転車台を記録に残すため観察隊の要望により発掘作業が行なわれました。
転車台発掘で、鍋横在住・清水喜峰氏が書き起こした略図3点
転車台が当時どのように使われていたかを示すイラストと構造を上と横から見た図面です。略図といっても、かなり精密に描かれています。また、当時のバスはボンネット型で16人が定員の小ぶりのものでした。
転車台の「思い出ものがたり」
江藤春雄:平成10年談
記憶によると東横バスが鍋横通りを走っていたのは、昭和20年の頃までと思います。当時の道幅は現在よりもずっと狭く、バスがやっと通れるくらいでした。そのためバスが方向を変えるためのターンテーブルがありました。
毎日、その側を通って小学校へ通っていました。ターンテーブルの上に乗せたバスは、運転手と車掌が車体の前部と後部から押して回転させ向きを変えます。この時一緒になって押したりすると「危ないからダメ!」とよく怒られたものです。また、バスが来ない間は格好の遊び場でした。よく友達2〜3人と、ターンテーブルを足でこいで回転させ、だんだんスピードが出てくると上に乗って、その回転を楽しみました。それは、まるでメリーゴーランドに乗っているような気分でした。確か小学校4〜5年生の頃のことです。
ターンテーブルの床下は修理ができるように、人が立って入れるくらいの深さがあり、その中に入るための階段が横についていました。10年ほど前、千葉の方で同じようなものを見かけ、少年の頃、ターンテーブルに乗って遊んだことを懐かしく思い出しました。
大羽圭子:平成14年談
家の中にバスが入っていって前向きに出てくるのが、子ども心に不思議だったことと、車掌さん(女性)が、かばんを前にぶら下げ笛をピーピー吹いていた姿が思いだされた。
桜田悦江:平成14年談
小学校2年生の頃(昭和14年)兄と二人でおこづかいを貰うとバス(片道子ども2銭)に乗りたかったこともあって、よく大宮公園に行き魚釣りをして遊びました。食べ物などを買ったりして帰りのバス代を使ってしまい、夕方暗くなりかけた道を、泣きながら家まで歩いて帰ったことを思い出しました。
清水喜峰:平成14年談
どんなものが出てくるか、興味があって手伝ったが、月日を越えても風化せず、鍋横の地に眠っていた転車台が出てきたときは大変感激した。
彦坂雅子:平成14年談
観察隊の活動を始めて以来、鍋横で生まれ育った人たちの話に「友達5、6人で回して乗って遊んだ」「遊んでいるとバスが来て危ないからと怒られた」「確か...今、東横喫茶店になっていてその中にあったよ」と転車台のことがよく出てきました。まさかPTAの集まりでお茶していた床下に埋っていたなんてびっくり!です。いつか見られればいいなぁと...、その時が来たのです。
鍋横にとって貴重な財産となるもので、壊されると聞いて何とか保存できないかと、いろいろな関係方面に交渉したんですが、大きな物で移動場所がないなどと断られたのが唯一の心残りです。手元に残った一個の滑車がその時の思い出です。