商売の思い出
下駄屋さん
高野キヨ子:平成10年談
鍋横通りで下駄屋を営んでいた頃、周囲にはたくさんの商店があり、ほとんどの日用品は近所でこと足りた時代でした。通りをはさんで向かい合って魚屋があったりしました。
下駄を商品として店に出す前にすることがあります。問屋から仕入れた土台桐の左右に合判を打ち、面とり(角を丸くするため木で擦る)します。表面と側面に砥の粉を塗り、乾かして砥の粉をワラのブラシで取り除きます。これを2回くらい繰り返し、次に艶出しのため蝋を塗ります。(蝋は値段の高い下駄には上質のものを、安いものは普通の蝋を使います)その後、瀬戸物で出来た道具で、表面をよく擦ります。鼻緒を挿げ、裏の前鼻緒の所に前金を打って出来上がりです。磨いたりするのが結構力仕事だったんですよ。
文房具屋さん(富士屋事務器)
深山雄暉:平成20年談
母親が現在の場所に文具店を開店したのは昭和20年のことです。9月から中野本郷小の6年生に転校して、昭和31年に店を引き継ぎ現在に至っています。「鍋屋横丁に引越しよ」と言われた時、有名な地名だし、浅草の仲見世みたいな所かな?と思っていましたが、来て見ると道路が広く両脇に約150店舗が並んでいる大きな商店街でした。
当時のお中元・暮れの大売出しには福引が盛んでした。三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)などを特賞の景品にした為、福引券を貰う大勢の買い物客で、商店街全体が繁盛しました。
文具の売れ筋はなんといっても、セロハンテープ・ホッチキス・マジックインクなどが当時の画期的な商品でしたね。
一番大変な出来事として思い出されるのは、昭和39年に近隣4軒が焼けるという大火に見舞われたことです。家は全焼してしまいましたが、夜更かししていたのが幸いして、人命救助の表彰をされました。
本屋さん(本郷堂書店)
天野弘子:平成20年談
私が生まれる前、家族は文京区の本郷に住んでいました。関東大震災で家が焼け、翌年鍋横に越してきて、大正の終わりか昭和の初め頃に、父が「本郷堂書店」を開業しました。店名の由来は、文京区の本郷から鍋横の本郷の地に来たので、本郷堂と名付けました。中野本郷小学校関係の納品をしているので本郷堂かとよく聞かれますが、中野本郷小学校は昭和3年開校ですから、本郷堂のほうが古いのです。住いは、キセル占いで有名な茂木邸(現在の区民活動センター所在地)の右路地を入った奥にありました。
本郷堂の建物は新宿区柏木で開催された博覧会で使用した木造低二階建てを移築したもので、間口は4間(7.2m)あり鍋横商店街では広い方の店でした。この地域は戦災に遭わなかったので、戦後は一時、新山小学校・一中・二中などの教科書、文房具を扱っていました。父は、子どもさんが本の立ち読みをすると、ハタキを掛けたりしたので近所では雷親父で有名でした。その頃は私も店の手伝いで、十貫坂を下って、救世軍療養所や和田堀の大谷家まで本郷田んぼを越えて本の配達をしたものです。その後、教科書も無料配布となり、本の扱いも減ってきたので、昭和45年に家を建て直した際、店を二分して片方を貸店舗にし、本郷堂は昭和54年まで営業しました。
魚屋さん(越後屋)
小林ミツ:平成20年談
昭和14年魚屋に嫁いできたときは丁度鍋横の通りが今の道幅に広がった時期でした。昭和25年に魚の統制が廃止されてからは、朝4時に起きて、魚河岸に行く夫を送り出すと、9時にはお店が開けられるように準備して、夕刻魚が売り切れるまで商売が続きました。
昭和40年代の鍋横には、100軒を超す店舗があって賑わっていました。お客さんも殆ど顔見知り、まずは世間話から始まりました。「こうしたら美味しかったよ」とお客さんから調理法を教わったり、冬でもシジミの水洗いは欠かさなかったので「お宅のは泥臭くない」とか「お造りも小骨が丁寧に抜かれているから子どもにも安心」などと喜ばれました。それを聞くと嬉しくて苦労になりませんでした。このようなお客と対面する商売が減ってきたのは寂しい気がします。
和菓子屋さん(鳳月堂)
須藤勝見:平成20年談
戦前は青梅街道の西京信用金庫の辺りで和菓子屋を営んでいました。戦後現在の本町4丁目(アンサンブル新中野ビル)でお店を再開しました。
私は文京区本郷三丁目にあった羊羹で有名な江戸老舗藤むら※で修業し「ショキチョウ」と呼ばれていました。今でもその名残で職人さんのことをそう呼んでいます。ほとんどの和菓子のつぶ餡は自家製で作ります。こし餡は機械がないと出来ず大体は飴専門店から仕入れるのが多いのですが、うちは小豆からこし餡を作っているのが特徴です。また、浅田次郎の小説「メトロに乗って」に出てくる花鳥堂のモデルではないかと言われているんです。
※森鴎外や夏目漱石の小説に登場。明治〜昭和の文人墨客に愛されていましたが平成になって惜しまれつつ閉店しています。
スーパー大谷屋(スーパーのはしり)
安藤幸好:平成20年談
私がこの付近に住み始めたのは4〜5歳の頃で、現在中野通り(戦時中に強制疎開によって出来ました)になっている所に4軒長屋があって、そこで親父が煮豆屋の商売を始めたときですから、75年になりますね。
この頃はまだ商店もまばらで殆ど原っぱでした。周囲に人が住んでいなかったから商売もなかなか大変だったけど、関東大震災(大正12年)後、下町の方から焼け出された人々が移って来て爆発的に住宅が増えて、息を吹き返しましたね。近所付き合いも大らかなものでした。2軒隣のブリキ屋で朝早くからトントン叩く音がうるさいんですが、「おっ!今日も忙しそうだな」と喜んだりして、今だと騒音だったんで大変ですよ。