高野製粉所
中野の地場産業のひとつ、明治8年創業のそば粉の高野製粉所は屋号を葛西屋と言いました。そのため現在三味線橋通りと呼ばれているこの道は、以前は「かさいや通り」と呼ばれていました。製粉所のある敷地の前はガラスや金属のおしゃれな食器を扱っていた洋食器店でした。
高野製粉の「思い出ものがたり」
高野マサ:平成14年談
昭和16年、宇都宮から鍋横の葛西屋に嫁いできました。うちは分家で乾物屋(現スーパーコーノ)を営み、本家は瀬戸物屋で家の奥に製粉所があり、蕎麦粉を挽いて近辺の蕎麦屋に売っていました。裏の空き地はそば殻がいっぱいに積まれ、それをまき代わりに使っていました。すごく暖かかったのを覚えています。
小宮哲郎:平成20年談
この辺りで印象に残っていることは戦災で焼け残った高野製粉所の蔵にあった焦げたそば粉を、町会の役員の方々が手伝って近所に分けたり、近くを通りがかった人々が仲良く分け合っていた姿です。
石塚光男:平成8年談
昭和8年〜10年頃鍋横大通商店会は全盛期でした。昭和9年に東京音頭が大流行した前後の年に高野製粉所の庭で東京音頭の盆踊り大会がありました。