五柱五成神社(ごしゃいなりじんじゃ)
樹齢150年以上のイチョウに囲まれた五柱五成神社は、現斎主の先祖槇屋平兵衛が文政六年(1823年)に京都伏見稲荷大社から勧請を受け、屋敷稲荷として祀ったのが始まりです。
祠(ほこら)とその前の道は、元々敷地内にありましたが、青梅街道へ出る抜け道として近隣の方を通してあげたところ、いつしか稲荷の存在が知れ渡り、願いが叶うなどの評判が立ち始め、地域の人々に親しまれてきました。また、昭和5年に「衣・食・住」の一切を司る稲荷神社として「天圀蔵五柱五成大神」と名付けられ、以前は祠になっていましたが昭和48年五柱五成と改名し現在の社殿に建て替えられました。
「日限りの稲荷」として7日間あるいは21日間と日限りでお願いし、大願成就には必ず五色の旗を揚げるようなしきたりとなっています。
五柱五成神社の「思い出ものがたり」
稲子知義:平成20年談
昭和20年5月鍋横が空襲を受けたとき、避難先の和田(杉並区)から家の方角の空が真っ赤になっているのが見えました。「焼夷弾で家は焼けてしまったかな」と心配して家に帰ってみると、家は焼けておらず、屋根だけでなく家の中にまでのイチョウの葉がたくさん落ちていて戦火から守ってくれていました。「イチョウは火が近づくと水を噴くと聞いていたのは本当なんだ」と実感しました。
今ほど高い建物が無かった昭和30年頃、イチョウの枝ぶりもすごく、ムクドリの集団が羽休めに来て「ギャーギャー」と鳴き声が騒がしく、またフン害にも悩まされました。有名な写真家が撮りにきたりもしました。群れが真っ黒い塊となって飛び立つのが遠くから見えたほどです。
成瀬光:平成20年談
家の裏にある五柱五成神社で友達とよく度胸試しをして遊びました。現在の立派な社殿になる前は祠になっていて、鳥居をくぐってその裏を廻ってくるだけなのですが、とにかく怖かったのを覚えています。敷地はほとんど変わっていない筈なのに、今では考えられないくらい距離があったように感じました。