青梅街道・思い出物語 〜前編〜
青梅街道拡幅前後の話
語り部:植野國男・平成14年談
青梅街道が昭和4年に拡幅されることになり、米屋をやっていた私の家は道路になるということで立退きとなりました。拡幅前の道幅は10間位(約18m)だったでしょうか。真ん中を西武電車が走っていました。
雨が降ると道がぬかるみ自動車が通ると大変で、跳ね上がった泥が家の中まで入ってくるのを店の前に戸板を立て泥除けにしました。
また淀橋のやっちゃ場(青物市場)に野菜を積んで行く馬車が何十台も通るので、道いっぱい馬糞だらけになってしまい、その片付けはもっぱら子どもたちの仕事でした。
拡幅後に道が整備されて歩道ができると、道を挟んで土・日ごとに交代でどちらか一方の側に夜店が出るようになりました。バナナの叩き売り、セルロイドのおもちゃ、着物の反物などを売る店が連なり、両端は必ず植木屋でお店全体の3分の1ほどありました。夜になると灯りに使うアセチレンガスの独特の臭いが漂っていたのが忘れられません
西武鉄道の話
語り部:唐沢政次郎・平成5年談
あたしの子どもの頃は、青梅街道沿いに新宿から今の新中野郵便局までずっと一列に家はあったんです。ほとんど商家でした。それから先はずっと畑でね。家の後ろは九尺二間の長屋があるだけであとは全部畑。挑園小学校がここいら (本町4-43)から見えたくらいですよ。
道幅も今の半分以下、そこへ電車が入ったんだから狭いもんでしたよ。亀の子電車 (当時の西武鉄道のち都電14番)が新宿一荻窪間を通ったんです。人がいっぱい乗っちまうと中野の坂を上がれないので「みなさん、済みません、降りてください」なんて大変な電車でしたよ、単線でね。
昭和4、5年頃だったかな、青梅街道のこっち側、南側がとられて、ずっと道幅が広くなって、亀の子電車も複線になったんですよ。