青梅街道・思い出物語 〜中編〜

昭和初期の洋食屋「菊屋」

洋食屋としては東京パンより先に始め、格式もあり菊の模様とロゴ入りの食器を使用していました。

語り部:小倉一祐・平成10年談
私が鍋横交差点近くに洋食レストラン菊屋を開いたのは昭和3年、20歳のときです。当時、中野駅北口一帯に陸軍の電信隊があったのですが、駅周辺には旅館が2軒あるだけで、中野の中心といえば鍋横から宝仙寺周辺だったんです。休日になると兵隊たちが追分通りから鍋横周辺に繰り出し、大変賑わっていました。とりわけカレー軒は美人のウエートレスがいたので、兵隊たちに人気があり繁盛していました。
私の店は上野精養軒の御料理として日替わりメニューを出したことが評判となり、大勢の文士の方によく利用されました。トイレを水洗にしたり、電気冷蔵庫をいれたのも中野で最初でね。
文士の事で思い出すのはナップ(NAPF:全日本無産者芸術団体協議会)や中野会(中央線沿線に住んでいた文士の集まり)の人たちです。中野会は発会式もうちでやりましたし、毎月集まっていましたね。確か、詩人の春山行夫(1902-1994年)と百田宗治(1893-1955年)が幹事をしていました。なかでも作家の伊藤整(1905-1969年)は、近くに住んでいたこともあって毎日のように来ていましたね。

店では当時としては珍しいナイフとフォークを使っていたので会合が終わると数を確認していました。ある文士さんたちの会合の後でナイフが足りない時があり、文士さんに言うわけにもいかないので、そっと勘定書に上乗せしておきました。そうしたら、文士の間で調べたそうで、ある著名な作家が持っていったのが分かりました。多分よく切れるので紙切りがわりにでも使おうと思ったのでしょうね。

城西館のチラシ広告。 菊屋と隣の高野食器店が載っています。
中野館のチラシ広告。左側おかめや蓄音機店の宣伝です。

おかめやレコード店

語り部:江藤春雄・平成20年談
おかめやレコード店では、朝から晩まで当時の流行歌(愛染かつら・東京音頭など)をスピーカーから流しっぱなしでした。現在だとうるさいとか騒音の対象になるところですが、それが許された時代でした。

鍋横市場の話

語り部:百瀬徳蔵・平成14年談
鍋横市場は鍋横交差点先の「しおのビル」と、その横の駐車場(本町4-1)のところに、昭和40年代までありました。この辺りは戦災を免れたので、戦前からある古い建物でしたね。ひとつの大きな建物の中に、八百屋、肉屋、魚屋、佃煮屋、荒物屋、乾物屋など12軒の店が入っていて2階にそれぞれの家族が住んでいました。私はその隣で、昭和24年から平成2年まで手焼きせんべい屋を営んでいました。手焼きと言っても、網の上で1枚1枚焼くのではなく、網と網の間にはさんで釜で焼くんです。燃料には備長炭を使ってました。
うちも商売していて忙しかったし、この地域に、まだスーパーマーケットなどない時代だったので、鍋横市場は毎日のように利用していました。日常の買い物のほとんどがここで間に合って、とても助かりました。昭和37年頃まで、鍋横市場の中に井戸があって近所の人がよく水を汲みにきていました。当時は水道が引かれてなかったので、市場の井戸をみんなで使っていましたよ。

夜店の思い出1

語り部:唐沢政次郎/小林保雄・平成5年対談
「毎月21日が宝仙寺の大師様の縁日で賑やかに夜店が出ました。むしろを敷いて品物を並べて売るんですよ。戦争前、昭和12、3年くらいまで続きましたかね。欠かさず行ったもんですよ」「私もありますよ」「今のお祭りに出るようなお店が出るのね。露店商の集まりがあってね。お祖師様のご利益なんてやってたのが、次の時には草履を売ってやんの。柴又の寅さんみたいなもんだね。親分がいてね」「バナナの叩き売りなんかもあったんですよ。一晩ともたない、翌る日はまっ黒になっちまう。それから将棋もありましたね。大道将棋」「詰め将棋あんなの勝てないよ、なかなか。勝つと将棋の本をくれる、そしてお金は払うのよ。台を置いて、その上に蓄音機を置いて、レコード1枚聴かしていくらってのもあった」「遠眼鏡ってのもありましたよ」「大道芸人で全くなくなっちゃったのは、あほだら経ですよ『チョイト出ましたカッチャカッチヤ無いもの尽くしで申そうならばナントカとナントカはなくてオンバサンノアラブチャこいつも無え』なんて言って笑わせるんだ。こういう芸人いなくなっちゃったね。あとなくなっちゃったのは、義太夫みたいな、なんて言ったかな......」

夜店の思い出2

語り部:上島昌之・平成20年談
昭和10年頃のことですかね。鍋横の思い出はなんと言っても夜店ですね。毎週土曜日、日曜日と鍋横交差点を中心に特に北側の歩道にたくさんの店が並ぶんです。慈眼寺から追分通りの入り口付近まででしたが、子どもの頃にはずいぶん長い距離に思えました。夜店の明かりも電灯ではなく、カーバイトを燃やしたものでガスの臭いがくさかったのを覚えています。食べ物を売るお店が多く、いつも一銭持って行けば楽しめましたね。1銭でだいたいアメ玉2個くらい買えました。特に串カツの揚げたてを壺のソースに入れた時の「ジュー」という音と、ソースの香ばしい香りは今でも懐かしく頭に残っています。でも、1本の値段が2銭位で自分の小遣いでは買えなくて、親と一緒の時は買ってもらえるので、それが食べられるという喜びがありました。
「コリントゲーム」というパチンコと似たゲームもよくやりました。玉を入れ、ゴムを弾いて目標に当たると飴や菓子がもらえるのです。そんな楽しみだった夜店も戦争が激しくなり灯火管制のためか開かれなくなりました。