青梅街道・思い出物語 〜後編〜

強制疎開の話

語り部:寺田留次郎・平成5年談
第二次大戦中、軍が戦車戦をするために、新宿の大ガードから環七までの青梅街道北側奥行き40間(72m)を地図上で線引きし、3日間で立ち退くように命令を出しました。その際、戦時報国特別債券も出しましたが、戦後はただの紙切れになってしまいました。その時、宝仙寺・浅田醤油(国宝級の蔵がいくつもあったため)慈眼寺・中野警察・西町天神などは残されました。

鍋横交差点の角から/地下鉄の話

語り部:江藤利雄・平成14年談
先々代が明治時代の中頃「阿波屋」から分家し、現在地(中央3-34)で商売を始めて以来、昭和34年からの地下鉄工事や都電の廃止など、青梅街道の移り変わりを、見たり聞いたりしてきました。
小学生の頃(昭和10年代前半)は比較的国内が安定していて、鍋横は中野銀座と呼ばれるほどに賑やかでした。商店の種類も多く、歩くだけでも楽しかったです。特に鍋横交差点の四つ角は、しゃれた「東京パン」デパートのような「阿波屋呉服店」ガラス食器が並ぶ洋食器屋と、うちの文房具店があり、文化的な雰囲気を醸し出していたように思います。
地下鉄「新中野駅」は、当初、杉山公園の下(駅名は南中野)に作る予定でしたが、商店会長だった父親が、鍋横の繁栄のため、駅を商店街側にもってきて駅名も「鍋屋横丁」にしようと誘致に奔走した結果、時の運輸大臣の河野一郎の裁定で、現在の位置、駅名に決定したと聞いています。両方の綱引きのせいかどうか、当初、駅の方向案内板に「鍋屋横丁」といれてもらえず地域で張り紙をしたものです。昭和37年2月に開通の式典が行われ、その様子が浅田次郎の小説「メトロに乗って」に描写されています。

都電廃止の話

鍋屋横丁の交差点近くに都電の停留所がありました。以前は西武鉄道の路面電車だったのですが、その軌道を東京都交通局が買い取り、都電14系統杉並線(新宿⇔荻窪)として運営されていました。当時は利用客も多く便利な交通機関でしたが、昭和37年同じ青梅街道に営団地下鉄荻窪線(現、東京メトロ丸ノ内線)が開通したため、惜しまれながら昭和38年11月に廃止となりました。

語り部:中村清太郎・平成21年談
戦前、西武電車が大ガードをくぐり東口に通って来るのを見るのが好きでした。それが高じて鉄道写真を撮るのが趣味となり、長年親しんできた都電が今日で最後になると聞いて撮影しました。

廃止の時名残を惜しんで人々が集まり「さらば都電去り行く都電に感謝」の式典 が行われました。