阿波屋呉服店

阿波屋呉服店は姓を江藤といい当地に六代以上続く旧家で、幕末には江戸の紺問屋仲間に属する大染物商でした。中野村の藍染めの紺屋は、その後、幕末まで1軒しかなく、手広く商売を行っていたそうです。
明治24年に呉服店を開業。間口20間の角店で座り売りのほか、箱車10台あまりで5里(20km)四方に売り歩く大店で近在に有名でした。
嘉永七年(1854年)の諸問屋名前帳によれば、紺屋問屋組合の十番組に名を連ねたほどの紺屋で、慶応二年(1866年)長州征伐の「上金高割小前取立帳」によると鍋屋とほぼ同額の1758文を収めています。このことから、当時の繁栄ぶりを伺い知ることができます。

デパートのはしりともいわれた阿波屋呉服店の全景。店内の広い階段は、服部時計店(銀座4丁目和光)から買い取ったもので当時の阿波屋は新宿の布袋屋(伊勢丹の前身)より売り上げが多かったそう
隣の江藤家具店とで嫁入り家具をそろえるのは当時のステータスでした。
青梅街道側にある阿波屋家具店窓から下の賑わいを見る店員さん。

阿波屋呉服店の「思い出ものがたり」

唐沢政次郎:平成5年談
中野には、当時大きな商人がいたんですよ。青梅街道沿いにね。阿波屋さんでしょ。この近辺から荻窪にかけて有名だったんですよ「わた幸」って言ってね。青梅街道沿いの商店のあるところは明るかったね。街灯なんか商店街が作ったからね。一歩中に入ると暗かったけれどね。お客は近辺の人だった。大きな商売を鍋屋横丁でしてたのは阿波屋さんくらいだね。明治から大正にかけて新宿にデパートができるまで、ここから荻窪、吉祥寺の方まで、嫁入り支度をここでしたもんですよ。いいものは阿波屋でってね。おもしろい逸話があるんですよ。先代の時(昭和14年のこと)ですがね、戦争が始まって税金が高くなって払いきれない、それで町会で集まって協議したことがある。その時にね、阿波屋の番頭さんが来て「旦那の言いますには『国が大きな戦争をするためにお金がいるんでしょ。そのためなら、身上ふるっても払います。博打や競馬で身上つぶしたらご先祖さまに申し訳ないけれど、国のためなら、何とも思わない』と言うんですよ」これを聞いて、ガタガタ言っていたのが、しーんとして、みな黙っちゃった。あれには驚いたな。

江藤春雄:平成20年談
戦後ジャズ歌手や俳優としても活躍したディックミネがこの近所に住んでいて阿波屋に家具や呉服などの買い物に来る度に100円札を出して釣銭に困ったと聞いています。10円でも大変な額の時だったですね。

江藤喜久子:平成20年談
幕末から現在に続く呉服店の一人娘として生まれ、鍋横の店が空襲で焼失するまで、祖父母、父母と三世代で住んでいました。その後は焼け残った本町6丁目に居を移して以来60数年になります。戦後店は再開しましたが、商売の方は父母と主人がやっていましたので私は店の方に出ることはありませんでした。
祖父は大勢の使用人に対して、いつもブツブツと小言ばかり言っていました。ある日、落語を聴きながら笑っているのを見て、このおじいさんでも笑うことがあるのかとびっくりしました。家作に住んでいる家から出征兵士が出ると、その家から家賃はとらないんです。私が、貰えばいいのにと言うと「女は財産のことに口を出すな」と叱られたり、また食事がまずいなどと言おうものなら「そんなこと言わず、黙って食べろ」と怒られたりしました。
親戚の春雄さんとは年も同じだったし、家も戸を開けると庭続きだったのでよく遊びました。花火などをする時私は平気へいきという感じですが、彼は必ず水を持ってくるような慎重さがありました。
そういえば近くにモダンでしゃれた洋食屋(菊屋)があり、よく連れて行ってもらいました。菊の模様とロゴの入った食器が珍しく、銀のナイフとフォークを使う洋食屋で、行くのが楽しみの一つでした。

昭和10年春 賑わいを見せる阿波屋呉服店。右側の西武電車が走る青梅街道には手信号の信号機が見えます。
戦災で焼失後に営業を再開した時のお店です。その後立て替えられ町の中心ともいえる存在でしたが、平成24年に閉店し、現在はマンションの建設が計画されています。
敷地内にある稲荷は当主の江藤喜三郎が槇屋平兵衛と共に詣でて「お墨付き」をもらって勧請したもので、五柱五成神社と兄弟稲荷と称されています。今後は五柱五成神社にお移り頂く予定になっています。(五柱五成神社参照)